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ちょっとした情報。〈1〉

《姉川の合戦のあらまし》

 元亀元年(1570年)6月19日。浅井長政を攻める為に近江に入った織田信長は、21日から浅井氏の居城である小谷城を攻めるが、小谷城の構えが固いとみるや、24日には龍ヶ鼻に陣を構え、南に位置する浅井氏の出城横山城を攻撃した。これは平野部に浅井氏をおびき出す為であったといわれている。これに乗る形で浅井・朝倉軍は南下した。
 姉川を挟んで北に陣取る浅井・朝倉軍は約18,000人、南には織田・徳川連合軍が28,000人であった。
 6月28日、決戦は早朝午前5時に始まった。
 徳川方から仕掛けられたこの戦いは、当初浅井・朝倉軍が優勢であったが、徳川軍の力戦により朝倉軍が後退した為、浅井・朝倉軍は右側から崩れ始めた。総攻撃に転じた織田軍により、ついに浅井・朝倉軍は敗走に転じた。こうして戦いは午後2時頃には終わったとされている。

 小谷城に敗走した浅井長政は、一度織田方と和議を結んだが、再度の織田方の城攻めにより、天正元年(1537年)8月、長政はお市と3人の娘(茶々、お初、お江)を逃がして自身は自決した。これにて3代続いた浅井氏は滅んだ。

 戦国時代、「近江を制するものは天下を制す」と言われた様に、この戦いは織田信長が天下統一のきっかけになったと言われている。

 

茶臼山から姉川・小谷山方面を望む

←これは茶臼山古墳(県指定史跡・長浜市東上坂町)の後円部に登った所から撮った写真。
石碑があるので何かと見れば「李王垠殿下御台臨・姉川古戦場御覧之処・昭和6年5月19日」とある。
要するにここは、姉川合戦のおりに織田軍が陣所を構えた龍ヶ鼻陣所跡から下ったところにあり、大変見晴らしがよい。
このため碑にある様に、久爾宮(くにのみや)邦彦親王や朝鮮王朝の李王垠(りおうきん)が、姉川合戦の戦場視察に訪れている。
但し、現在は正面に白い工場が見える様に、この一帯は工業団地となっており、真正面には直接、姉川を望む事が出来ないのが残念である。

→これは姉川そば(長浜市野村町・古戦場の碑がある)から織田軍が陣を構えた横山方面に向かって撮った写真。
前に架かる橋の奥に上の写真にある工場が見えている。ちょうどその奥に織田軍が対峙していた。
この場所から横山まで直線距離にして約1.5km弱。織田軍の幟が良く見えたと思われるが、浅井長政はどういう思いであったのだろうか。
ちなみにこの位置から下流に行ったところ、すなわち朝倉軍が陣取った場所が、血原と呼ばれるほど川が赤く染まったと言われる場所である。

姉川から横山方面を望む

今回は小谷城に登っていないので、是非小谷城跡から見た姉川古戦場を撮りたいと思っている

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